●交通事情〜クラクション編

 フフホト市内中心部。走っている自動車の数は非常に多い。日本、欧米、中国と様々な国のメーカーの車が入り混じっている。ピッカピカの新車はそう多くないが、いわゆる高級車もずいぶんと走っている。

 この交通社会で印象的だったのは、クラクションの音がなんとも賑やかなことだ。市内では道路を横断する人と自転車そして幅寄せ・転回などの迷惑な自動車に対して。郊外では道路を横断する家畜を追い払ったり、前を走る遅い自動車を追い抜く間中ずっと。とにかく盛大にクラクションを鳴らす。鳴らす。鳴らし続ける。

 たしか日本の運転免許の試験問題では、「運転中、歩行者が横断しそうだったのでクラクションを鳴らして知らせた」には、「X!やっちゃだめ!普通やるに決まってるけど、少なくとも免許取るまではX!」を選択しなくてはいけない。あなたもこの手の引っ掛け問題に慎重だった時があったでしょう。こうした教育のせいか、いまでも僕はクラクションを鳴らすのにためらいを感じることが多い。仮に本当に必要な局面でさえ「あのー、すみません、ちょっと私の車に気づいていただきたいんですが…」と、申し訳ないような気持ちで「…ップ。」と短くやるのだ。でも、これじゃ大陸では通じないようだ。第一、そんな鳴らし方では、まわりで鳴り続ける他のクラクションにかき消されてしまう。そこで、それこそ親の仇のようにビービー、ブーブー、景気よく鳴らしまくる必要があるのだ。

 ふと思ったのだが、日本人とフフホト市民では(あるいは日本人とウランバートル市民でも良いが)、クラクションの音に対する情報処理の仕方に根本的な違いがあるのではないだろうか。たとえば日本のようにあまりクラクションが鳴らない、もしくは鳴っても短い時間しか聞こえないような社会の場合、クラクションは単に「聞こえる」ということだけで、歩行者に十分「危険」を感じさせることができる。ところが、フフホトのように至るところで1日中クラクションが鳴っているような街だと、単に「聞こえる」ということだけでは「危険」を意味することにならないはずだ。実際、フフホトに着いたばかりの僕はクラクションの音すべてに一々反応してしまい、キョロキョロしてかえって危ない思いをした。つまり、フフホトの歩行者は、単なる背景音として「聞こえる」クラクションと、自分の危険に直結する「意味のある」クラクションとを、何らかの方法で聞き分けているはずなのだ。例えば、クラクションの見かけの音量で車との距離を割り出しているのはおそらく間違いないが(大きく聞こえたらかなり車が近いから、すなわち危険)、もしかしたらドップラー効果によるクラクションの音程の変化(近づく救急車のサイレンはピッチが高くなるのと同じ)を利用して、自分に近づく車が鳴らすクラクションだけを効率よく割り出しているかもしれない。すなわち、クラクションの音から危険を察知する脳内の神経回路が、日本人とフフホト市民では全く異なる可能性が考えられるのだ。もしこの認知の仕方が解明できれば、クラクションの音量や音程の時間変化をコントロールすることで、クラクションを鳴らしているのにフフホト市民でさえよけることのできないような、そんな夢の自動車を開発する事だって可能だ(おいおい…)。さぁ、だれか論文書いてみないか?

 


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嵯峨治彦
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